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【画人・竹久夢二】モチーフ図鑑 自由・愛・優しさへの憧憬を描いたマルチ・クリエイターの素顔

 2017/07/10 芸術・アート
この記事は約 26 分で読めます。
【画人・竹久夢二】自由・愛・優しさへの憧憬を描いたマルチ・クリエイターの素顔

女性なら、思わず手に入れたくなるような、
モダンな図柄の風呂敷やハンカチ、
扇子や浴衣、etc.・・・

女心をくすぐる竹久夢二のデザイン、
図柄が施されたグッズは、

近年デパートやネットショップでも
とても人気です。

竹久夢二は、
明治後期から昭和初期にかけて
活躍した画家です。

特に「大正」の一時代を代表する、
「大正ロマン」の代名詞的な存在として
知られていますね。

はかなげで憂いを帯びた
「夢二式美人」をはじめ、
愛らしい絵画作品やデザインなど、

時代を超えて再評価されている
その作品の美は、
人々の心を捉えてやみません。

画家であるだけでなく、
詩人、文筆家、デザイナー、
装丁家としても活躍した夢二は、

いわばマルチ・クリエイターで
あったともいえます。

また芸術家らしく、恋多き一面についても
これまでによく取り沙汰されてきました。
そんな夢二の人生と、多才な創作活動について
ご紹介しましょう。

葛飾北斎については
【葛飾北斎展覧会】日本が誇る浮世絵師・北斎の画狂人生
こちらをご覧ください。

Contents

竹久夢二の生い立ちと画家デビューまで

面長でちょっと悲しげ、
物憂げな「夢二式美人」に代表される、
叙情的でロマンあふれる竹久夢二の作品。

明治の終わり頃から、
大正をはさみ、
昭和初期まで一世を風靡した
彼の作品世界には、

彼の生い立ちや、愛したものたちが
存分に投影されています。

絵筆を握るだけでなく、
詩やエッセイなどを書く文筆家、
本や雑貨のデザイナーとしても活躍した
竹久夢二は、どのように生まれ育ち、
その芸術を生み出していったのでしょうか?

少年時代の竹久夢二

夢二は岡山県の瀬戸内海にほど近い、
豊かな自然に囲まれた村に、
生まれ育ちました。

幼い頃より絵を描くことに
親しんでいた夢二。

人一倍多感に過ごし、
駆け抜けた彼の少年時代は、
後の画業に大きく影響します。

出生~造酒業と農業を営む竹久家に誕生

時は1884年(明治17年)。

夢二は
岡山県邑久郡本庄村(現瀬戸内市)で
小さな酒造屋と農業を営む、
竹久家に誕生しました。

夢二はのちに
画家となってから名乗った名で、
本名は茂次郎といいます。

上に兄がいたのですが夭折したため、
茂次郎は、
事実上の長男として育てられました。

本庄村は、
岡山市から約30km東に位置する
千町平野の一角。

穏やかな瀬戸内海と、
悠然と流れる吉井川に挟まれた、
美しい自然が広がる村で、
茂次郎はのびのびと育ちました。

幼少期から発揮していた画才

幼少時から、
茂次郎は画才の片鱗を
見せていました。

後年語ったところによれば、

「私はわずか3歳で
筆を持って馬の絵を描いた」

と回想しています。

また、母親・也須能の実家は
染物屋を生業としていました。

度々ここで遊んでいた茂次郎が、
染物の文様や、色彩から、
さまざまな影響を受けていたことは、
想像に難くありませんね・・・!

夢二のモダンかつ、普遍的な
デザイン的才能は、すでに
幼少期から培われていたのです。

型にはめない服部杢三郎の絵画指導

茂次郎の才能は、
小学校を卒業して進学した
高等小学校でさらに開花します。

茂次郎の資質を早くから見抜いた、
鉛筆画の教師・服部杢三郎は、
熱心ながら、型どおりではない
絵画指導にあたりました。

当時の図画教育では、
臨画(模写)を中心としたものが主流でした。

しかし服部は、
屋外での写生を重視し、

茂次郎に、
まず自由に描くことを教えたのです。

型にはめない教育法で、
茂次郎の才能はいっそう伸びていきました。

終生、画壇に属さなかった夢二は、
高等小学校時代の師・服部杢三郎に対して
「私の最初で最後の先生であった」と
後年、書き残しています。

夢二は美人画だけでなく、
自然の風景や植物をモチーフにした絵も
度々描き残しましたが、

こうした少年時代の活動を
存分に生かしていたといえるでしょう。

紆余曲折の学生時代

15歳~17歳は、
誰にとっても
多感な年頃ですよね。

そんな時期に夢二は、
異国や都会への憧れという、
決定的な指針を見出しました。

その憧れは、
その後の人生を左右するほどの
ものだったのでは、と筆者は想像します。

人は障害に出会うと出会わないとでは、

前者のほうがよりがむしゃらに
突き進むようになる

そんな気がしませんか?

実家の都合で
学校中退を余儀なくされたことも手伝って、

はっきりと画家を志すとは決心しないまでも、
自分を夢へ近づけたい意志、
漠然とした希望が焦燥となり、
夢二を突き動かしていったのかもしれません。

異国趣味の原点となった神戸中学時代

高等小学校を卒業した茂次郎は、
故郷を離れ、
叔父の家に身を寄せて、神戸中学に入学。

15歳の多感な少年にとって、
異国情緒を感じさせる神戸での生活は、

その感性が大いに揺さぶられる
ものだったに違いありません。

茂次郎のエキゾチシズムは、神戸の街並み、
美しさ、モダンな空気に刺激され、
後に描いた作品世界に大きく作用しました。

神戸中学を中退~福岡へ移住製図工として勤務

しかし入学してから間もなく、
茂次郎は神戸中学を中退してしまいます。
めくるめく神戸での生活は、
わずか8ヶ月後で終わってしまいました。

自分の意志で中学を中退したのではなく、
実家の家業が傾いたことで、そうせざるを
得ない状況にあったのです。

竹久家は一家をあげて、
福岡県遠賀郡八幡村へと移住しました。
後に大きな工業都市に成長するた八幡村では、
折りしも、
八幡製鉄所の開業を目前に控えていた時期で、
父・菊蔵はこの地で一旗上げるつもりでした。

やむなく同行した夢二は、製鉄所内で
製図工として働くことに・・・。

しかし彼の胸には、ふつふつと沸き起こる
願望が日増しに抑えがたいものとなって
いきました。

家出同然に上京した夢二

その願望とは、上京への夢でした。
将来の希望が何なのかは見出せないまま、
「朱欄長廊の高閣に世の栄華を極めたい」と、
心が、漠然と都会へ惹きつけられていた茂次郎。

自分が何をしたいのか、
定まらない状態でありながら、
東京への憧れは、
相当強いものだったのでしょう・・・!

17歳の夏、茂次郎は
母と姉だけに思いを打ち明け、ついに
家出同然に出奔。
単身、東京へと向かったのです。

東京での新生活~画家としてデビュー

上京してから、何のつてもない茂次郎は、
生活費のために、新聞配達、車夫、書生などをし、
しばらく暮らしました。

翌年、
ゆくゆくは実業へ従事するなら、と
父の了承を得て、
早稲田実業学校に入学。

しかし、まだ画家になるとは、
はっきりと意識しないまま、暗中模索の日々を
送っていました。

そんな茂次郎は、どのようにして、
画家デビューし、一躍売れっ子アーティストに
登りつめたのでしょうか?

早稲田に在籍も、雑誌への投稿に専念

早稲田に入学した茂次郎は、
そこで当時、教鞭をとっていた阿部磯雄に
出会います。

阿部は、キリスト教的人道主義を唱え、
日本の社会主義運動の先駆となった人物。

茂次郎は、アメリカやドイツでも学んだ阿部に
感化され、当時開戦された日露戦争に対する
非戦論にも刺激されました。

この思想的な変革は、夢二が新聞や雑誌への
投稿を始めるきっかけとなりました。

社会主義への傾倒から平民新聞にも絵を発表

茂次郎は同級生と間借りした部屋で
自炊生活を営みながら、
社会主義運動の機関紙「平民新聞」に、
反戦的な風刺画を投稿するようになります。

この風刺画を、当時は「コマ絵」と呼び、
時には端的なメッセージを、読者へ向けて
投げかけるものとなっていました。

世の中に一石投じたい、
そんな思いが、茂次郎の中にあったのでしょう。
彼の絵は、そうして世に発信されていきました。

子ども、女性-弱者への思い 社会主義実現への希望

「僕にとって一番切実な問題」と、
茂次郎が「コマ絵」で多くとりあげたのは、
弱き庶民、特に女性や子どもの姿でした。

戦地で亡くなった家族を思い、涙する女性などを
描いた茂次郎の「コマ絵」からは、
弱者への同情に突き動かされた、彼の
心優しい一面が感じられます。

茂次郎は、人間の苦しみ、悲しみを訴えながら、
社会主義実現への希望を抱いていたのです。

コマ絵が入賞し、画家デビュー

社会主義機関紙と並行して、一般紙にも
投稿を重ねていた茂次郎は、この時期から
「夢二」の筆名を使い出します。

1905年(明治38年)、読売新聞に投書した
「可愛いお友達」の掲載に続き、
「中学世界」に投稿した「筒井筒」が
第一賞に入選。

これを機に早稲田実業を中退したため、
田舎の父からは絶縁状が送られてきました。

しかし夢二は積極的に文章や絵の創作、
投稿に励み、数々の雑誌で入選を重ね、
快進撃を続けます。

出版界で画才が認められ始めた夢二は、
投書家時代を終え、ついに画家としての道を
歩み始めました。

夢二の芸術を読み解く3つの鍵とは?

多感なロマンチシズム、都会への憧れ、
弱者への優しさなどを抱きながら、
画家としてデビューした夢二。

心の赴くままに駆け抜けた小年~青春時代は、
彼の画業に多大な影響をもたらしました。

その中でも、色濃く夢二の絵に投影されている
3つの要素をあげてみたいと思います。

郷愁に満ちた少年時代に形成された核となるもの

たおやかな美人、かわいらしい子どもなど・・・。
夢二の絵に、優しさ、美しさ、愛くるしさを
そこはかとなく感じる人は、多いことでしょう。

優しいもの、美しいもの、愛くるしいものを
求めてやまない、画家自身の心が
映し出されているかのようです。

心優しい理解者・母や姉への思慕

夢二の絵を読み解く3つの要素のうち、
まず一点目は母・姉への思慕があげられるのでは
ないでしょうか。

無償で自分を包んでくれる、
心優しい理解者であり、
美しい女性である母と姉。

上京する際も、この二人には、
胸の内を話し、相談していました。

母と姉、二人の面影は、
夢二の理想の女性像へと
発展していったのです。

理想の女性に対する永遠の憧憬―美人画の原点

上京してからも、いつも遠くから自分を案じ、
見守っていてくれた、母と姉。

夢二の中で呼び覚まされる彼女たちの目には、
あの美人画にも通ずるような
悲しさ、憂いが、浮かんでいたかもしれません。

「夢二式美人」の外見的な要素は、
後述の妻や恋人たちに似るところが大きかった
かもしれませんが、内面的な要素は、
肉親であり、慕い続けた母・姉の存在が、
大きく作用していたのではないでしょうか。

最晩年、夢二は病床についてもなお、
「姉に会いたい」と願うほどでした。
終生敬愛してやまなかった母・姉への思いは、
女性に対する永遠の憧憬となり、
作品の中で頻繁に表現されました。

実生活でも、理想の女性を追及するあまり、
悲しい恋の結末を迎えることが多々あり・・・。

それでもその悲しさは、
次なる作品への原動力になっていったのかも
しれませんね。

幼少期からの芸能体験の影響

さて、3つの要素のうち、2つ目は、
芸能体験の影響があげられます。

もちろん、
テレビなどはない時代ですので、

芸能といえば
当時は民俗芸能やお芝居などがそれにあたります。

一家あげての芸能好き 竹久家に生まれて

竹久家は、一家あげての芸能好きで、
太鼓や太刀踊、渡り拍子といった民俗芸能や、
地域で興行する村芝居などの、
パトロン的世話役を引き受けていました。

さらに、夢二が住んでいた本庄村は、
西大寺から牛窓港への街道筋の宿場だったため、
神楽、人形遣い、旅芸人の一座も、
よく訪れていたといいます。

幼い夢二は、芸能の持つ独自の艶やかさや、
村から村へ渡り歩く旅のイメージ、
訪れては行き過ぎる漂泊のヴィジョンに、
心躍らされていたようです。

多感な中学時代に触れた異国情緒

3つ目の要素には、異国趣味があげられます。
後に描かれた美人画には、和装ながら
西洋の雰囲気を漂わせるものも数多くありました。

これは中学時代に、
神戸での送った生活が色濃く
影響しているといえます。

夢二が描いた西洋風の絵柄は新鮮味にあふれ、
当時の庶民をとりこにし、
一大ブームを巻き起こしました。

独特の趣きあふれる神戸界隈

神戸は、現在でも洗練された街、
ファッションの発信地としても知られていますね。

当時すでに神戸は、外国人居留地を控え、
「メリケン波止場」と呼ばれた神戸港を中心に
洋館が立ち並ぶおしゃれな街並みを
形成していました。

そんな情景に触れた、少年時代の感性を、
後の創作に活かし、普遍的な和のテイストと、
モダンな異国情緒の組み合わせで、
独自のハイセンスな作品世界を描きました。

どこか異国趣味を醸した彼の作品は
人気を博し、掲載雑誌の売り上げに、
大きく貢献したといいます。

後の外遊につながる異国への夢

神戸で多感な時期を過ごした夢二は、
その頃から「イタリーやフランスのことを知り、
ゆくゆくはぜひ洋行したい」と、西洋諸国への
憧れを胸に抱き続けました。

そしてその夢を後年、度々の外遊に実現しました。

アメリカでは個展を開催し、
ドイツをはじめとするヨーロッパ各地を
スケッチしながら廻り、西洋の空気を存分に
吸い込んだのでした。

夢二と女たち

夢二は、アーティストらしく、
華やかな恋愛遍歴をたどったことでも、
よく知られていますね・・・!

しかし、彼が辿った恋愛の道筋は、
実はただ華やか、というだけではありません。

真実の愛を求めてもがき、孤独と葛藤し、
自己矛盾を抱えながら
進むべき道を模索してし続けた・・・

彼と彼をとりまく女たちのことを知ると、
そんな夢二の姿が、まざまざと浮かびあがってくる
ことでしょう。

画業確立の転機となった他万喜との結婚

駆け出しの画家として、多くの雑誌に寄稿し、
活躍していた夢二は、1906年(明治39年)の秋、
22歳の時に岸他万喜と出会い、
翌年には結婚します。

他万喜とは、後に離別してしまいますが、
この女性との結婚は、夢二の画業に転機を
もたらします。

その転機とは、
夢二の代名詞「夢二式美人」の誕生です。

二人はどのように出会い、
またどのようにそれぞれ別の道を
歩み出すに至ったのでしょうか・・・?

2歳年上の未亡人・他万喜との出会い

1900年(明治33年)、郵便規則の改正があり、
私製はがきの製作と使用が可能になったことで、
この時代、絵はがき屋がブームとなっていました。

岸他万喜は、
早稲田鶴巻町に開店した絵はがき屋「つるや」の
女主人で、評判の美人でした。

そこへ、
夢二は自ら描いた絵はがきを持ち込み、
美しい他万喜に急接近したといいます。

他万喜は、夢二より2歳年上の未亡人でしたが、
出会って半年も経たずに、二人は電撃入籍。

なんとも情熱的ですね・・・!

この結婚のニュースは、
平民新聞でも取り上げられました。

「夢二式美人」の誕生

他万喜の写真をみれば、誰もが、
そう、あの「夢二式美人」を彷彿とさせる
面影を感じることでしょう。

面長で美しい顔立ち、
伏し目がちで悲しげな表情・・・
「夢二式美人」の絵は、モデルとしての
他万喜の存在なくして、誕生しないものでした。

夢二は、
他万喜の外見に理想の女性像を
見出していました。

他万喜から日本画の技法を伝授

美術学校にも行ったことがなく、画壇にも
属していなかった夢二にとって、
他万喜は心強い存在であったともいえます。

なぜなら、他万喜の前夫は日本画家であり、
彼女にも多少その心得があったそうで、
日本画の技法を、夢二に伝授することも
ありました。

技法的な意味でも、
夢二は、他万喜と結婚したことで、
絵の新境地を開いたといえるかもしれません。

三男を設けるも、破綻した夢二と他万喜

結婚の翌年には、長男が誕生し、
仕事でも売れっ子だった夢二の生活は、
傍からみれば、順風満帆だったことでしょう。

しかし二人の間には争いが絶えず、
結婚から約2年半で離婚してしまいます。

家庭を省みない反面、嫉妬深い夢二と、
日常生活を大事にしていきたいという他万喜。
二人の溝は、徐々に深まっていったのです。

けれども男女の仲は、当事者でなければ、
理解できない謎も多いものです。

二人は、離婚後も
約10年もの間同棲と別居を繰り返し、

1916年までの間に
次男、三男をもうけました。

それでも三男が誕生した頃には、
二人の仲は終焉を迎え、
夢二は次なるミューズと結ばれていたのです。

最愛の女性・彦乃

他万喜の後に現れたミューズこそ、
夢二最愛の女性といわれる彦乃です。

世の中では、夢二人気がいっそう高まり、
夢二は一躍有名画家として活躍していました。

絵だけにとどまらず、勢いにのって、
夢二によるデザインで、主に女性向けの小物も
作られ、それらを扱う「港屋絵草子店」を
日本橋呉服町に開店。

店へ訪れた客の中に、
夢二に心を寄せる一人の女性が・・・。
それが彦乃でした。

障害を乗り越えて結ばれた「山」と「川」

彦乃はその時、18歳。
夢二より一回りも年下でした。

「港屋」は連日、
商品の品切れが相次ぐほどの
盛況振りでした。

来店する女性には夢二ファンが多く、
彦乃もその一人には違いありませんでしたが、
画家を志していた彼女は、夢二から
絵の指導を受けることになります。

二人が惹かれあっていくのに、
時間はかからず、
まもなく恋仲へと発展。

しかし、
当時まだ仲が続いていた他万喜との
愛憎から逃れられずにいた夢二と、

娘を溺愛し、
監視の目を光らせている父親を持つ彦乃は、
思うように逢瀬の時間を持てなかったようです。

彦乃を「山」、
夢二を「川」と合言葉で呼び合い、

密かに手紙を交わしていたといいます。
程なくして結ばれた二人でしたが・・・

この頃まだ他万喜との仲が終わっておらず、
もしも現代のことであれば、
マスコミはさしずめ「ゲス男」と、
世間知らずなお嬢様の道ならぬ恋、と
捉えたかもしれません。

それでも夢二は真剣でした。

「結婚という形式で愛をつなぐことの
愚を知っているため」

夢二は、どうにかして因習の外で
二人の愛を永久のもの、
確実なものとしたい、
と願っていたようです。

学生時代、社会主義に傾倒するほど、
弱者である女性や子どもを守りたいと
夢見た夢二でしたが、

家庭人には徹することができず、
妻子と別居。

あげく、
夢想的な恋愛に身を投じてしまう・・・

夢二のしたことは、
明らかに矛盾していますよね・・・?

ただ、こうした矛盾を抱え込むことは、
いかにも人間らしい弱さの表れであり、
同時に
夢二の魅力のひとつだったのかもしれない、
そんなふうにも思えてくるのです。

芸術を志す同士としても意気投合

彦乃との関係は、恋愛という形だけでなく、
芸術を志す同士としての信頼関係にも
支えられていました。

他万喜に対する態度と違い、
夢二は彦乃に
自分の制作意欲について語ることも
しばしばだったといいます。

また、
画家を目指す彼女を出版社へ紹介し、
雑誌の口絵のために絵筆を執らせたりと、
世話を焼いていました。

お互いを高めながら、
未来を夢見ていた二人は、
ますます愛を深めていき、
他万喜との仲は完全に崩壊するに至りました。

つかの間の幸せの後に・・・

1917年(大正6年)、夢二と彦乃は、
京都で新生活をスタートさせます。
他万喜との間にもうけた次男を伴い、
3人で送った生活を、夢二は
「光彩陸離なロマンチックな暮らし」と
語りました。

スケッチ旅行にも頻繁に出かけ、
芸術と愛に包まれた、至福の時を
過ごしていた二人でしたが、この後、
次々と悲劇に見舞われることに・・・。

翌年、
京都に乗り込んできた彦乃の父によって、
彦乃は東京に連れ戻されてしまいます。

さらにこの年の夏から、
心労と体力的な負担のために、
彦乃は病に伏してしまいました。

翌年も病状が回復することのないまま、
彦乃は入院生活を送っていましたが、
夢二は彦乃の父に制され、面会も許されずに、
失意の日々を過ごしていました。

この間に、夢二は彦乃との愛を綴った
「山へよする」を出版。

これは彦乃との思い出を詠んだ歌と、
彼女をモデルにした挿絵による本でした。

そして1920年(大正9年)が明けてまもなく、
わずか23歳で、彦乃はこの世を去ります。

「こんなに苦しむほどなら、
死んだほうがよい」

と繊細な夢二はしばらく、彦乃の死を
受け入れることができませんでした。

以後、
夢二は生涯、最愛の女性・彦乃の面影を
追い求めながら、
生きていくこととなったのです。

20歳年下のお葉(佐々木カ子ヨ)

少し遡って、彦乃が病の床に伏している間に、
夢二はあるモデルの少女と出会っていました。

彼女は彦乃亡き後に現れた、次なる恋人、
佐々木カ子(ネ)ヨ。
夢二と初めて会った時は、まだ16歳でした。
親子ほどの年の差ですね・・・!

人気モデル・お葉

彦乃との仲を引き裂かれ、
病床に見舞うことも許されない夢二は、
悲しみのあまり絵筆を執ることも
できない状態でした。

そんな彼を見かねた友人が、
再び創作に向かえるようにと
紹介してきたのがカ子ヨでした。

10代のはじめから
美術学校でモデルをしていた彼女は、
教授や学生の間で人気を集めていました。

彼女の写真をみると、その表情にはやはり、
「夢二式美人」に通ずる、
物憂げな美しさが感じられます。

夢二のもとへ通い出したカ子ヨは、
「お葉」の愛称で呼ばれ、
掃除や洗濯なども引き受けて、
細々と女らしく世話を焼いたそうです。

夢二は彦乃の入院先にほど近い、
「菊富士ホテル」に住んでいましたが、
彦乃の死後、このホテルで
お葉も暮らすようになりました。

お葉をお人形のように装わせた夢二「パパ」

夢二より20歳も年下のお葉は、
夢二を「パパ」と呼びました。
思わずナボコフの「ロリータ」が
頭によぎりますね・・・!

夢二もまた、父親のような愛情で接し、
お葉を人形のように可愛らしく装わせて、
髪型から仕草までも、

自分好みの「夢二式」の
女性像に仕上げようとしました。

争いの絶えない不安定な日々

夢二はお葉をモデルに制作にも励みましたが、
もう二度と再会はできない最愛の彦乃を
思い浮かべてしまうことが度々でした。

これは女性にとっては、
とても辛いことですよね・・・

しかも年若く、
人生経験が浅い頃であれば、
なおさら辛かったのではないでしょうか。

一人の女性として愛され、
結婚を望んでいたお葉。

「どうしてもお葉でなければならない」

という程の愛は感じられない、
夢二の振る舞いはお葉にとって、
とても残酷でした。

意識の違いから、二人の間には争いが
絶えませんでした。

そんな中、1924年(大正13年)、
夢二は初めての持ち家「少年山荘」を
自らの設計で世田谷に建設。

夢二はそこで、長男、次男、お葉、
書生の青年とともに暮らし始めました。

しかし新生活には波乱も多く、
平和な暮らしは訪れませんでした。

お葉との感情のもつれから、
書生が服毒自殺を図る事件が起きたり、

心身ともに疲れたお葉が、
湯治のために家を離れた隙に、
夢二が他の女性と関係を持ったり・・・。

わずか1年あまりで、お葉は夢二のもとを
去ってゆきました。

多才なマルチ・クリエイター夢二

自らを「技術家」と称した夢二は、
総合芸術の一部として、
「絵画」の在り方を模索していました。

夢二が残した数々の仕事には、
庶民の手に届かないような「純粋芸術」ではなく、
「生活に根ざした美」の確立を目指して、
「技術家」=デザイナーとして歩んだ姿勢が
感じられます。

絵だけでなく、文章、詩歌、グッズデザイン、
本の装丁など、身近に親しめるアプローチで、
多才なクリエイターの才能を発揮しながら、
一時代を築き上げたのです。

子どもたちの夢の世界を描く

子ども向けの出版物は、夢二の生涯においても、
大きなウェイトを占めているといえます。

子どもの可愛らしさ、好きな物を表現し、
またその気持ちを代弁し、夢を描く・・・。

夢二は多彩に展開した画業の中で、
子どもたちの姿を繰り返し描きました。

児童雑誌の挿絵から、童謡の創作まで

明治末~大正にかけての出版界では、
幼少年向けの雑誌が相次いで創刊されました。

夢二の絵を掲載した少年・少女雑誌は、
およそ30タイトルにもおよび、
彼の57冊の著作本のうち、その約半数が
少年・少女向けに作られた読み物でした。

絵本、童謡集、画文集や絵手本など、
子どもたちに愛される本を多数出版した夢二は、
意外にも「美人画より童画の方が好き」と
語ったこともあったといいます。

全国的な愛唱歌としてヒットした「宵待草」

竹久夢二といえば、美人画と並んで
「宵待草」も大変有名ですね。
「待てど暮らせど来ぬ人を・・・」という
フレーズは、夢二を知らなくても、
なんとなく知っている、という人が多いのでは
ないでしょうか。

雑誌「少女」に原詩が掲載され、
後にメロディーが付けられた「宵待草」は、
全国的な愛唱歌として大ヒットしました。

詩人としての才能も発揮した文筆家

いくら待っても、あの人は来ない・・・
「宵待草」は、悲しい胸の内を表した、
恋しい人を思う詩。

これは、
他万喜と別居・同居を繰り返していた頃、
旅先で出会った娘に抱いた自らの恋心を
詠ったものだそうです。

やはり恋多き男、夢二。

その想いを大ヒット作に昇華させるところは、
まさに天才クリエイターの感性なのでしょう。

画才だけでなく、文才にも長けていた夢二は、
詩のほかに、エッセイなども多数残しています。

デザイナーとしても活躍した夢二

夢二は、同時代の装丁作家・橋口五葉らと並び、
日本におけるグラフィックデザイナーの先駆け
でもありました。

驚くほど多方面で活躍した夢二のデザインは、
今もなお色あせず、多くの人を魅了しています。

多岐にわたるデザイン・ワーク

まだデザインという考え方に
馴染みがなかった時代に夢二は、
本や楽譜の装丁のほか、
千代紙などの紙小物、
和装小物や浴衣といったファッション雑貨、

ポスター、商品パッケージなどの広告まで、

幅広い分野のデザインワークを展開しました。

先述の夢二グッズを扱う「港屋」は、
売り切れ続出の大盛況で、
夢二のデザインがどれだけ
消費者の心を掴んでいたかを物語っています。

本に関わる仕事の中でも、
表紙などをデザインした装丁本には、
多彩な趣向が繰り広げられていました。

当時活躍した作家に提供した物は、260冊以上。

印刷技術を熟知していたため、
本の各部分に施すイラストや図案の効果を、
的確に狙ったデザインを心がけたといいます。

夢二の装丁が、本の売り上げにもつながった
ことはいうまでもなく、
彼が当代きってのヒットメーカーだった
ことが、うかがえますね。

現代でもおしゃれ・・・!夢二デザインの魅力

いつの時代も、女子と雑貨は切り離せませんが、
大正時代の少女たちも女心をくすぐるような、
夢二デザインに心躍らせ、
日常の彩りとしていたことでしょう。

夢二デザインの雑貨は、今でもデパートや
ネットショップなどで人気ですね。

レトロ・ポップで
ハイセンスな夢二デザインは、
まさに「大人かわいい」の原点かもしれません。

また猫や植物などをデフォルメした図柄には、
「ゆるカワ」なムードも存分に感じられます。

現代においても古びない、普遍的な魅力は、
私達女子をゆさぶる「可愛さ」から
発せられているのかもしれません。

竹久夢二 モチーフ図鑑 ―夢二さんの好きなもの―

ご紹介した竹久夢二の作品は、
東京都文京区にある、竹久夢二美術館で
みることができます。

同館では、年に4回、3ヵ月ごとに企画展を行い、
さまざまなテーマで夢二の作品を公開しています。
現在は「竹久夢二 モチーフ図鑑
―夢二さんの好きなもの―」と題した展覧会を、
2017年9月24日(日)まで開催中です。

竹久夢二美術館で開催!大正ロマンの作品世界

あまりにも有名な「夢二式美人」をはじめ、
夢二の作品世界は、みるものを古き良き
大正ロマンの時代に誘ってくれます。

同美術館では、夢二の生涯・芸術から
夢二を深く掘り下げて研究し、
多彩なテーマをとりあげて展示を行っています。
貴重な資料にも出会えるので、
ぜひ出かけてみましょう・・・!

夢二お気に入りのモチーフに注目した展覧会「竹久夢二 モチーフ図鑑

今回の企画展では、夢二が生涯にわたり、
繰り返し描いたモチーフに着目した展示が
行われています。

夢二は美人画以外に、子ども、山、椿などの草花、
猫、鳥などの動物などをよく描きました。

それらは、
夢二お気に入りのモチーフだったと考えられています。

思わずほっこりさせられるような、
可愛らしい作品にも出会えることでしょう。

また夢二が終生惹きつけられた異国、旅のイメージ
についても、紹介する内容となっています。

竹久夢二美術館併設・弥生美術館の魅力

竹久夢二美術館へ訪れたなら、
ぜひ併設の弥生美術館にも行ってみましょう。

弥生美術館では、竹久夢二と同時代~
戦後にかけての作家の作品を展示しています。
やはり明治~昭和にかけての、
レトロな作品の魅力を
存分に感じられる美術館です。

高畠華宵をはじめとする、明治~昭和の挿絵画を展示

大正から昭和初期に活躍した挿絵画家・高畠華宵。
弥生美術館では、
彼の作品3,000点のほか、
明治~戦後の時代を彩る多数の挿絵画家の作品、
計27,000点を収蔵。

鏑木清方、木村荘八などの作品も所蔵しています。

竹久夢二美術館と同じく、1・2階の企画展示、
3階・高畠華宵の展示室も、年4回の展示替えがあり、
それぞれテーマを設けて、展示を行っています。

美術館周辺をぶらり散策もおすすめ

両美術館は、東京メトロ根津駅にほど近く、
通りを隔て、東京大学本郷キャンパスに面した
閑静な住宅地に立地。

美術館を鑑賞後は、
夢二が一時暮らした「菊富士ホテル」が
あった東京・本郷を散策し、
当時に思いを馳せてみるのも良いですね。

少し足を伸ばせば、不忍池や上野公園、
都美術館や国立博物館にも歩いて行けるので、
要所巡りも楽しいですよ。

もちろん、デートにもオススメ・・・!
夢二についての逸話から、お互いの恋愛観を
語りあってはいかがでしょうか?

“細い彫刻”で有名な、
ジャコメッティについては
【ジャコメッティ展】アルベルト・ジャコメッティの作品意図やその人生
こちらをご覧ください!

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makiko

makiko

芸術系大学出身。アート・恋に夢中だった学生時代、ヒールの高い靴を愛した独身時代を経て、現在はライター、イラストレーターとして活動するアラフォーママ。