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【2017年の今こそ・岡本太郎】芸術は爆発だ!岡本太郎美術館にて開催中「岡本太郎と遊ぶ」展 (命がけで遊び、生き、芸術を創造する)

【ピカソにも兆戦した、鬼才・岡本太郎】芸術は爆発だ! 命がけで遊び、生き、芸術を創造する ~「岡本太郎と遊ぶ」展~

職場でなぜかしでかしてしまった、単純ミス。
ちょっとした誤解から、彼と仲違いして、
しばらく連絡もなし・・・。

自分がパッとしないときに、恋も仕事も順調な
友人の話を聞かされ、思わずため息・・・etc.

などなど、
そんなふうに、本当に些細なことを気にして、
日常の中でついブルーになってしまう
ことって、ありますよね。

今回ご紹介するのは、そんな小さな自分を
いっきに吹き飛ばしてくれるようなアート!

目の前にすると、なんだか底知れぬエネルギー、
迫力、生命感に圧倒されそうになること
間違いなし。

そう、「芸術は爆発だ!」でおなじみ、
近代日本が誇る偉大なアーティスト、
鬼才、異端児ともいわれた岡本太郎です。

Contents

常識にとらわれない父・母の愛 岡本太郎のルーツとは?

nanakoさん(@n5575)がシェアした投稿


岡本太郎は、書家の祖父、売れっ子漫画家の父、
作家の母という、芸術一家に生まれました。

芸術家としては恵まれた環境にありましたが、
一般的な家族の愛情、という価値観からすると
かなり特殊な家庭で育まれたようです。

愛のかたちは千差万別。
特殊ではあっても、愛には違いなく、
その中で感性を「爆発」させ、
見事な花を咲かせた太郎は、やはり
あたたかく育てられたに違いありません。

また岡本太郎を紹介する上で、
この両親からの多大な影響について触れることは
欠くことができません。

まずは太郎の父方のルーツからご紹介しましょう。

色濃く受け継いだ岡本家の行動力、芸術的素養

1911年に生まれた岡本太郎は、
84年の生涯を常に全力で生き抜いた芸術家です。

絵画、写真、文筆のほか、空間デザイン、
彫刻、書など、その作品は多分野に渡ります。

芸術の在り方を世の中に問い、
精力的に活動し、多彩な表現活動を展開した
太郎は、家族の影響を色濃く受けて育ちました。

奇人伝のある曽祖父、書家の祖父

岡本家は、和歌山で
代々儒学を教える家系でしたが、
明治維新後は儒学がすたれ、
太郎の曽祖父・安五郎の代から学者を
廃業していました。

安五郎は儒学の経典「易経」を読みながら、
時折り奇声を上げたり、刀を振り上げて
家の柱に切り付けるなど、奇行を
繰り返していたといいます。

曽祖父の奇行は、
きっと訳あってのことだったのでしょう。

時流と、己の生業とのジレンマに、
何か活路は見出せないか、
自身を奮い立たせていたのかもしれません。

傍から見れば、かなり恐ろしいですが・・・

強い意気込みは、
全身全霊で芸術と格闘した太郎に
通ずるものがあるような気がします。

安五郎は、息子の竹二郎に
習字の手本を与え、これで書を学ぶように
言ってきかせました。

その後竹二郎は、わずか14歳で両親に
先立たれてしまいます。

人の代わりに手紙を書く「代筆」をして暮らし、
17歳で上京。自ら「可亭」という号を付けて、
書家としてスタートしました。

看板を書く仕事を多くこなし、
「茶処 山本山」の字も可亭によるものでした。
今では商品のロゴとなって、すっかりおなじみ
ですね・・・!

可亭は、この後、あの北大路魯山人も
内弟子として奉公したほどの書家になりました。

太郎は1970年代後半から、
書にも本格的に取り組んだのですが、
この祖父の血も色濃く受け継いでいたことと
思われます。

破天荒な可亭、そして一平の誕生

可亭は少年時代から
筆一本で身を立てただけあり、
かなりの行動力の持ち主だったようです。
そして心の赴くままに動こうとする人物でした。

看板の文字を書いて大金を稼いでも、
贅沢三昧のどんちゃん騒ぎを繰り返し・・・。

一文無しになった可亭は、
このまま東京にはいられない、
となぜか北へ向かいました。

北海道で名を上げ、できれば
シベリアに渡ってロシアに行こう・・・!
そんな破天荒な計画もあったといいます。

しかし函館でお正という美しい女性と
知り合い、結婚。
そして生まれたのが、太郎の父・一平です。

一平、画家を目指せ!

著名な書家としてその名を馳せていたものの、
可亭は「書はもう時代遅れだ」と
こぼしていました。

しかし他に生計を立てる術もなく、
再び筆を握って看板に向かう日々でした。

そんな可亭は一平に、
画家になれと勧めました。

一平が旧制中学を卒業すると、
当時最も人気のあった浮世絵画家・
武内桂舟に弟子入りさせます。

桂舟は、まじめに仕事に励む人物ではなく、
遊ぶために仕事をするタイプの画家でした。

一平は、絵の描き方などはほとんど
教えてもらえず、ただ奴隷のように仕える
生活を送っていたのです。

3年ほどで内弟子生活に嫌気がさした一平は、
家に戻り、「これからは洋画の時代です」と
可亭に話します。

これは内弟子に戻りたくないために言った
でまかせでしたが、

「言われてみればそのとおりだ!」と
可亭は即納得。

なんだか面白い家族ですよね・・・!

漱石もお気に入り 超売れっ子漫画家の父・一平

一平は半年ほどデッサンを習い、
東京美術学校(現東京藝術大学)に入学します。

遊びたい放題の画学生で、
卒業時は、最下位から2番目という成績でしたが、
劇場の背景を描く仕事に就き、ひょんなことから
朝日新聞に挿絵を描く仕事を得ます。

夏目漱石の連載に挿絵を描いていた名取春仙が
病に倒れ、春仙の小学生時代の後輩だった一平に
そのピンチヒッターの役が廻ってきたのです。

一平の絵を漱石は大変気に入り、
社会現象を面白く描いて単文を添えるコーナー・
「漫画漫文」に、
毎日寄稿することが決まりました。
これが大評判となり、一平は超売れっ子に・・・!

当時の漫画は、
現在のようなストーリーものでなく、
挿絵や風刺画などでした。

一平は多数の連載を抱え、
自身の本も出版するほど、
瞬く間に有名漫画家に登りつめたのです。

太陽のような存在 母・岡本かの子

岡本太郎の家族といえば、母・岡本かの子の
存在も、大変有名ですね。

かの子は、いわゆるお金持ちのお嬢様でした。
出身は、神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市高津区)、
二子という地域に300年以上続く、
豪商・地主の大貫家に長女として生まれました。

歌人、小説家としても活躍したかの子。
お嬢様育ちで、文芸活動や恋への激しい情動を
持つ母は、世間一般的な母親像とは
かけ離れたものだったかもしれません。

それでも太郎にとっては、
この上ない影響力を持つ、
かけがえのない存在でした。

良家の出身で浮世ばなれした文学少女

かの子は幼い頃から腺病質で、
つまり身体に抵抗力がなく、病気になりやすい
体質だったため、大変大事に育てらました。

乳母から日本舞踊、書道のほか、
「源氏物語」や「古今和歌集」を教えられ、
地元の塾で漢文を習いもし、文学少女に成長します。
絵に描いたようなお嬢様生活ですね・・・!

かの子は16歳頃から、
文芸雑誌などへ投稿をはじめ、
当時広く読まれた文芸誌「文章世界」に
新体詩が掲載されるなどしました。

父親と避暑に訪れていた軽井沢では、
「『明星』や『文章世界』にも歌や詩が載る才女、
真っ白なパラソルを肩にかけ、草原の風に吹かれる
美しい女性・・・」とささやかれたといいます。

一平とかのこの出会い

共通の知人がいたことから一平とかの子、
二人は出会い、
一平は20歳のかの子に一目ぼれします。

ほどなくして結ばれた二人でしたが、
一平がかの子の家に結婚の許しをもらう前に、
かの子のお腹には、
すでに太郎の命が宿っていました。

一平は、かの子の才能も見抜き、結婚後、
彼女の文壇デビューのためにも、
全面的な支えとなります。

良妻賢母からはほど遠い観音様

結婚した一平とかの子は、京橋の一平宅で
岡本家の家族と一緒に暮らし始めます。

しかし2ヶ月ほど経つと、かの子は
「うまくやっていく自信がない」と、
実家へ戻り、訴える始末・・・。

広いお屋敷で育ったかの子には、
小さな家で、一平の家族も一緒の暮らしは
息が詰まるものだったのでしょう。
かの子は実家で、太郎を出産しました。

可亭は、孫の可愛さもあって、
息子夫婦に青山の家を買って与えました。
一平、かの子、太郎で、
親子水入らずの暮らしが始まったのですが・・・

かの子は、料理、洗濯など、家事全般ができず、
通常の金銭感覚がないので、お金の管理も
できません。
子守りも他人任せで、人を雇って太郎の世話を
してもらうほどでした。

執筆活動の際、太郎を家の柱やタンスに
くくりつけていた、というのは、
有名なエピソードですね。

そんなかの子を、一平は「観音様」、「吉祥天」と
呼び、奔放に生きる彼女を愛しました。

太郎は、後年「誰の中にも、漠然と
女性のイメージが在る」と書いています。

「わたしにとって、それは岡本かの子だ。
世俗的にいう賢い女、女らしい女とは、
およそ縁の遠い、猛烈な女だった」と。

生きている間は、すべての面で八方破れ。
散々酷評され、嘲笑され、誤解されとおした母。

しかし太郎は
「誤解のカタマリみたいな人間こそ、
すばらしいと思う」と続けます。

どこまでが誤解だったのか、実体はどうなのか
分からないほどのスケールの大きさ―。

母のイメージは、彼女の死後もなお、
言い知れない豊かさ、また時には妖怪的な趣きを
伴って、太郎に迫るのでした。

両親の型破りな愛のかたち

夫婦の関係も色々ですが、
一平、かの子の関係は、とりわけ特殊、
というほかありません。

情熱的なかの子には、夫の他に
恋人の存在があったことも、一度では
なかったのです。

しかし、家族が崩壊するでもなく、
むしろかたい絆で結ばれた、
唯一無二の関係を築き上げていました。
なんともビックリですね・・・!

夫が妻の恋人の存在を容認?!

一平とかの子は、芸術家同士であったため、
強い個性のぶつかり合いもあり、
当初の結婚生活は平穏とはいえなかったかも
しれません。

そして結婚後まもなく、かの子には相次いで
ショッキングな出来事が続きます。

実家の破産、敬愛する兄や母の死・・・。
失意のかの子をよそに、一平は放蕩を繰り返し
かの子は神経衰弱に陥って、
精神科に入院してしまいます。

一平は自分の行いを反省し、
以後はかの子のために生きよう、と決心しました。

そんな折、かの子は自身を信奉する早稲田の青年と
恋に落ち、なんと太郎も暮らす岡本家で
同居することに・・・。
彼と一緒にいたい、というかの子の願いを
一平は受け入れたのです。

そんな「一妻多夫」の状態は、
この青年とのことだけに終わりませんでした。

一平の寛大さ、優しさは、
半端ではありませんね!

なんとも女性冥利に尽きる、
かの子夫人だったことでしょう。

母亡き後、父の家族すべてを引き受けた太郎

型破りな両親のもとで育った太郎は、
何においても、桁外れのスケールで物事を捉え、
行動する人物に成長したと思われます。

母・かの子は、1939年、太郎が28歳の時に
49歳の若さで亡くなります。
一平は、その後再婚し、娘ほど年の離れた
山本八重子と結婚。

やがて、一平と八重子は、4人もの子宝に
恵まれましたが、結婚から約7年後に
一平はこの世を去ります。

太郎は、この義理の母と4人の子どもを
この後、20年近く面倒をみたといいます。

どんな困難も笑顔で受け入れ、それを力にして
生きていった太郎。
筆者はその姿勢に、男女の愛、家族の愛を超えた
強い人間愛を感じずにはいられません。

岡本太郎の少年時代~パリ時代

太郎は幼少の頃からすでに、
強い意志を持って生きていました。

後年、「ぼくは五つ、六つのときから、
自分はこう考えて生きていくんだ
という考えを持っていた。
筋を持っていたんだ」と振り返っています。

18歳でパリに渡ってからはさらに、
その強さを外界へ向かって放出するように、
迷いなく驀進していきます。

強い意志と感性に突き動かされて

芸術家の両親のもと、特殊な家庭環境で育った
太郎は、やはり一般的に見れば、
一筋縄ではいかない子どもでした。

多感な少年時代は読書に明け暮れ、
いつしか絵画での表現に目覚めた太郎。
そして自身が追い求める芸術探求のため、
強い意志と感性を携えて、
日本を飛び出していきます。

転校を繰り返す小1時代

1918年、太郎は小学校へ入学。
けれども、なんと1学期で退学してしまいます。
太陽と話をしながら正門をくぐり抜け、
そのまま裏門を通り越してしまう・・・
そんな子どもは、
先生ともうまくやっていけませんでした。

エキセントリックでありながら、
早熟な感性も持ち合わせていたようで、

太郎は
「当時、学校の先生は神様の次に偉いと
されていたが、僕はその先生たちの中にある
ごまかしや人間的いやしさを見抜き、それが
許せなかった」

とこの頃の気持ちを語っています。

太郎は転校を繰り返し、
4校目の慶応義塾幼稚舎へ入学。

わずか7歳で、両親と離れ、
寄宿舎で生活し始めました。

児童文学に癒される寄宿舎での生活

太郎は漫画家の父、文人の母の間で、
徐々に芸術に目覚めていきましたが、

少年時代にはまだ、
「画家」や「小説家」などと
具体的な道を決めてはいなかったようです。

ただ、本が大好きな少年でした。
幼稚舎で、規則正しく厳しい生活を送る中で、
太郎の唯一の楽しみは、読書でした。

起床は朝6時。
それより先に目覚めた太郎は、
布団の中に隠しておいた児童雑誌「赤い鳥」や、
戦国時代の剣術家の物語「塚原卜伝」などを
むさぼるように読んでいたといいます。

まだ日本では広く知られていなかった
グリムやアンデルセンの童話、アラビアンナイト、
西遊記、ガリヴァー旅行記なども
かの子が惜しみなく買い与え、

太郎は、世界の文学を、身体いっぱいに
浴びるように育ちました。

太郎には、母と対等に文学を論じられるように
なりたい、という願いもありました。

それほど、太郎にとって、
かの子の存在は大きいものでした。

美術学校へ入学も、ほどなくしてパリへ

慶応義塾普通部中等科へ進んだ太郎は、
同級生と同人誌づくりに励むように
なっていました。

14歳の時、同人誌の表紙を飾った
処女作「惨敗の嘆き」を制作。
同校商工部との対抗ボートレースに
普通部が負けた悔しさをテーマに、
抽象的な画面構成で仕上げた水彩画です。

次第に太郎の中で、
絵画の表現欲求が高まっていきました。

1929年、太郎は18歳になり、
慶応義塾普通部を卒業後、
東京美術学校(現東京藝術大学)の
西洋画科へ入学。
ところが、半年で退学してしまいます。

父・一平が出版した
「一平全集」の大ヒットにより、

かねてより岡本家の夢だった
ヨーロッパ旅行の資金が調い、
家族そろって出発することになったのです。

一風変わっているのは、この旅行に、
家族以外の同行者もいたことです。

一番の目的は太郎の絵画の勉強でしたが、
かの子の恋人であり主治医の新田亀三や、

慶応義塾大文学部教授、歴史学者の
恒松安夫も伴って、両親も皆それぞれが、
主にロンドン、パリ、ベルリンを、
自身の学問探求のために、数年かけてまわろう、
という計画でした。

そして太郎は旅立ちの時すでに、
フランスに骨を埋めよう、という覚悟を
決めていました。

芸術家とは何か、パリで悩み、学んだ日々

一行はおよそ40日かけてパリに到着し、
数日の観光の後、太郎以外は皆
ロンドンに旅立っていきました。

いよいよ太郎はたった一人で、
パリでの生活をスタートさせます。

まず語学を懸命に学びながら、
芸術の宝庫・ルーブル美術館に通いつめました。
そして大学の哲学科に入学。
人文学を総合的に学んだうえで、
芸術の本質や役割について、模索したのでした。

パリで語学の猛特訓、大学では哲学を専攻

太郎は毎月250円もの仕送りを
受けていました。

250円という値段は
なんと、当時の公務員初任給の
約3倍に相当する金額・・・!

いかに経済的に恵まれていたかが
わかりますね!

同じ頃、パリには画家・藤田嗣治や
実業家・薩摩治郎八など、
裕福な日本人仲間が住んでいました。

彼らと、遊ぼうと思えばいくらでも
できたかもしれませんが、
太郎は貪欲なほどに、勉学に没頭しました。

リセ(高等学校)でフランス語を学び、
約半年後には、アンドレ・マルローの「王道」など
難しい小説を読破するほどの語学力を
身に付けたといいます。

またリセに行ったもう一つの目的は、
大学に入るための
バカロレア(高等学校卒業認定試験)を受ける
ためでもありました。

そして名門・ソルボンヌ大学の哲学科に入学。
哲学科には「文学」、「歴史学」、「言語学」、
「芸術学」、「美学」など、文系の学問がすべて
含まれていました。

太郎は、根源的なところから絵画や芸術の
本質を学びたかったのです。
そのうえで自分なりの絵を確立したい、と
考えていました。

セザンヌやゴッホに涙し、ピカソの圧倒的な力を知る

パリで一人ぼっちになった太郎は、
古代から近現代に至るまでの美術の宝庫、
ルーブル美術館にも通いました。

多くの美術品を目にして、圧倒されつつも
感動するほどではなかった太郎でしたが、
セザンヌの作品は別格でした。

身動きできなくなるほど惹きつけられ、
帰り道、雨の中で傘もなく、ずぶ濡れで歩く
太郎の目からは、涙がとめどなく溢れるのでした。
「なんなんだ、これは?
涙を流させる芸術とは・・・?」

そしてまた、ゴッホの絵との出会いも、
太郎にとっては衝撃でした。

写実的な「ジャガイモを食べる人々」は、
写実を超え、人々の「生」に対する力を
描き出し、描く側としての太郎をも、
大いに揺さぶったのです。

そして訪れた、決定的な出来事とは・・・?
それは、ピカソの絵との出会いでした。

ピカソは1881年生まれ、太郎よりも30歳年上で
1932年、21歳になった太郎は、初めてこの偉大な
画家の作品「水差しと果物鉢」を目にしました。

キュビズムの手法で描かれた、
このピカソの絵に太郎は、
とてつもない吸引力を感じました。

それまでの伝統的絵画の世界を、
まったく変えてしまっている、
圧倒的な力を思い知ったのです。

先鋭の芸術に大いに刺激を受けながら、
一体自分はどのようなスタンスで
芸術界に足跡を残すことができるのか、と
太郎は思案するのでした。
「ピカソを超える」という決意を胸に・・・!

前衛的な芸術潮流、パリ人民戦線の中で、独自性を模索

太郎がパリで過ごした時代は、
いわゆる激動の時代でした。

写実のひとつである印象派の後に、
文芸運動・象徴主義(シンボリズム)や
先述のキュビズム(立体派)、
シュルレアリズム(超現実主義)などが登場。

次々と新たな芸術潮流が巻き起こっていました。

さらにヨーロッパでは当時、
ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンなどの
全体主義的体制が日毎に強まっていました。

これに反対する民衆の動きのひとつ、
「パリ人民戦線(コントルアタック)」の
集会に、芸術家仲間のエルンストに誘われ、
太郎も参加するようになります。

集会で講演を開いていたバタイユに出会い、
彼がシュルレアリズムの運動にも
参加していたことから、太郎は
「第1回国際シュルレアリズム国際展」に
招待される機会を得ます。

この時期の太郎は、芸術家は常に、
社会に対する発言を行うべき存在であることを
学んでいったようです。

そして1939年2月、不穏な情勢のパリで、
太郎は母・かの子の訃報を受けます。

母の死による、埋め尽くせない空虚を、
より強く生きることで補っていく―。
そんな決心をした矢先・・・

ナチス・ドイツはフランスに侵入し、
同年6月、パリは陥落してしまいます。
なだれのような侵攻に、太郎の友人たちは皆
武装して前線へ駆り出されていきました。

一人、ソルボンヌの中庭に取り残された太郎は、
ふと自己存在の中に置き去りにしてきた、
祖国「日本」が、肉体の風土であることに
気が付きます。

18歳で渡仏し、自身の表現における
独自性を模索していた太郎。

30歳を迎え、
ようやく自分らしい絵画表現の方法を
見つけたばかりの彼は、
いよいよパリを脱出したのでした。

戦争と岡本太郎

激動の時代を生き抜いた太郎の人生は、
戦争と切り離して語ることはできません。

ナチス・ドイツに陥落したパリから逃れ、
帰国した太郎には、過酷な徴兵生活が
待ち受けていました。

長く辛い兵役の後で、
不死鳥のように復活した太郎でしたが、
言うまでもなく、その作品世界には
反戦などのメッセージを投影したものが、
多数残されています。

戦火を逃れ帰国するも、徴兵された太郎

1941年、帰国してまもない太郎は、
新しい洋画の技法を身に付けた画家たちが結成した
「二科会」に依頼され、展覧会に出品、
そこで入賞を果たします。

フランス帰りの太郎は、美術雑誌から、
ヨーロッパ芸術の動向について寄稿してほしいと
依頼があるほど、注目されていました。

しかしそれだけに、憲兵たちに目を付けられ、
危険人物として徴兵されることに
なってしまうのです。

ドイツ軍を逃れ帰国後、個展を開催

戦禍が広がるパリを逃れた太郎は、
1940年夏、マルセイユからの最後の引揚船で
帰国の途につきます。

太郎はようやく自分らしい表現「対極主義」に
辿りついたばかりでした。

それは既存のイデオロギーに安住せず、
矛盾する対極の概念をそのままぶつける、
という手法でした。

その矛盾が大きいほど、そしてそこに現れる絶望が
大きければ大きいほど、緊迫した作品が
原始的な力を伴って生まれてくるのです。

帰国した太郎は、当時、日本の画壇で本流だった
「文部省美術展覧会(文展)」ではなく、
新しい洋画の技術を身に付けた画家たちによる
「二科会」」に受け入れられました。

パリで制作した「痛ましき腕」、
「コントルポアン」など4点を「二科展」に出品。

二科賞を受賞します。

そして銀座三越で、「岡本太郎滞欧作展」を開催。
新進気鋭の画家として、注目されるも、
事は順調に運びません。

フランス帰りで、モダンアートの動きにも
関係しうる太郎の存在に、
憲兵が目を光らせていたのです。

太郎は逮捕されることはありませんでしたが、
危険人物として徴兵され、1943年、
中国に送還されてしまいました。

過酷な徴兵生活で、自らを鍛えぬく決意

徴兵生活は、
太郎にとっても大変過酷なものでした。

有名な漫画家の息子で、パリ帰り
という経歴を持つ太郎は
即、上官から虐めの標的となったといいます。

若い10代の青年たちに混じり、
駆け足、匍匐前進、銃剣術など、
意味のない訓練を強いられました。

アワやヒエなどで作った貧しい粥だけを食べ、
重たい武器を抱えて前線を彷徨い、
仲間は殺されたり、倒れたりして日に日に
人数が減っていく軍隊生活・・・。

太郎もやせ衰え、
心は限界に近づいていました。

しかし太郎はここで、
「自らを鍛えぬく」という
決意をします。

兵隊を殴ることを日課とする鬼のような兵長に、
むしろ殴られようと
どんどん前に出ていく太郎は、次第に
上官に恐れを抱かせるほどになっていました。

極限状態のすべてを受け入れ、
受け入れる以上に積極的になる気迫。
感服に値する、強靭な精神力ですね・・・!

すべてを焼失した太郎 再起への道は・・・?

軍隊生活の4年間、収容所での1年間、
中国で地獄のような年月を過ごした太郎は、
1946年に帰国。

青山にあった一平とかの子の家と、
パリで描き、持ち帰った太郎の作品すべてが、
空襲で跡形もなく焼失していました。

しかし過酷を極めた兵役生活を乗り越えた彼が、
ここでへこむ訳がありません。

やっと訪れた、自由に表現できる時代。
太郎は水を得た魚のごとく、
泳ぎだしていくのでした。

太郎、活動を再開

戦争体験を経て、太郎はようやく活動を
再開します。

一時期、鎌倉に身を寄せた太郎は、
その後、世田谷の上野毛にアトリエを構え、
新たに活動を再開しました。

終生、良きパートナーとなる女性とも出会い、
以降、作品の分野、活躍の場もどんどん
広がっていきました。

川端康成のつてで鎌倉へ

焼け野原の東京で、住む家もない太郎でしたが、
家を焼失した青山をあとに、彼が向かった先は
鎌倉でした。

鎌倉には、すでに著名な作家として
知られていた川端康成が住んでいました。

母・かの子は、川端の文学を高く評価し、
川端らが雑誌「文学界」を創刊した際、
経済的に支えたともいわれています。

おそらく「何かあったら川端の所にいきなさい」
というようなことを、太郎は両親から伝えられて
いたのでしょう。

太郎は戦後の一時期、鎌倉の川端のそばで、
再び絵筆を握り、歩みだしたのでした。

養女・敏子との新しい生活

その後、太郎は世田谷・上野毛に移り、
新しいアトリエを構えて、本格的に
活動を再開します。

再出発の影には、後に太郎の養女となる、
平野敏子という女性の支えがありました。

この頃太郎は、
評論家・花田清輝らと「夜の会」を結成し、
前衛芸術運動を開始。
ここに参加していたのが、敏子でした。

太郎に惹かれた敏子は、ともに暮らし、
身の周りの世話をするようになっていきます。

結婚にとらわれずに生きる

敏子は、事実上は妻といっても間違いない
存在でしたが、太郎は彼女と結婚することは
ありませんでした。

「太郎さん、結婚なんてしなくて良いですからね」
かの子は生前、太郎にそう語っていました。
世俗の事情など関知しない、かの子らしい言葉
ですね・・・!

そのせいかは分かりませんが、
太郎は制度としての結婚にとらわれずに
生きることを選んだのでしょう。

太郎は養女として迎え入れた敏子と家族になり、
公私にわたって手を取り合いながら
生涯、ともに生き抜きました。

記者・海藤日出男の尽力

戦後の太郎の活躍は、目覚しいものがありました。
1950年、読売新聞文化部の記者・海藤日出男が
企画した「現代美術自選代表作十五人展」で、
太郎は最も若い画家として選出されます。

海藤は「岡本太郎滞欧作展」をみて、
いち早く太郎を評価していた人物で、太郎の
作品、芸術性に惚れ込んでいました。

フランスでアンドレ・ブルトンに賞賛された
初期の傑作「痛ましき腕」や「露店」は、
日本で焼失されたのですが、
太郎は海藤の勧めで再現。

「露店」はニューヨークの
グッゲンハイム美術館に買われ、
太郎の名は、次第に広く知られるように
なっていきました。

ピカソの「ゲルニカ」に迫る「明日の神話」

太郎の仕事を紹介するうえで、
やはりピカソについても、
切り離すことができません。

パリでピカソの作品に出会い、衝撃を受け
「ピカソを超える」と決意した太郎は、
1953年に出版した「青春ピカソ」など、
ピカソとの対話や芸術論を記した著作も
多数残しています。

そしてピカソの「ゲルニカ」同様、
反戦をテーマとした大作「明日の神話」の
制作にも挑みました。

太郎、「ゲルニカ」によせて

美術史上、最も強い反戦絵画芸術といわれた
ピカソの大作「ゲルニカ」の出現について、
「近代芸術全体の頂点であり、大爆発だった」
と太郎は語りました。

世紀の傑作を目の前にした太郎は、
まわりの喧噪がすぅっと消え失せていくのを
感じたといいます。

「僕は真空の中に、あの残酷なドラマと
対峙している、そんな気がした」と太郎は、
それが単なる美術作品以上のものであることを
痛切に思い知ったのです。

「ゲルニカ」同様、反戦をテーマに大作へ挑む

そんな太郎に1967年、メキシコの実業家から、
思いがけない依頼が舞い込みます。

新設するホテルのロビーを飾る壁画を
描いてほしい、というものでした。

なんと縦5,5m、横30mの桁外れなビッグサイズ。
ピカソのゲルニカと同じく「反戦」をテーマに、
非核を訴えるものでした。

太郎は「明日の神話」と題して原画を作成し、
何度もメキシコに通って壁画制作に励みました。

幻の壁画、太陽の塔・・・壮大なプロジェクトへ

しかし1969年、完成した壁画をホテルに仮設し、
最後の仕上げにかかる頃、ホテルオーナーの
経済状況が悪化。

作品は未完成のまま、
ホテルごと放置されてしまうことに・・・。

太郎には、どうすることもできませんでした。
壁画は取り外され、各地を転々としながら
いつの間にか行方不明になってしまったのです。

後に、この大作は無事に発見されたのですが、
これと同時期、太郎はもうひとつ
一大プロジェクトに関わっていました。

それは日本万国博覧会の
テーマ館総合プロデューサー、そして
「人類の進歩と調和」をテーマにした、
シンボルタワー制作。

あの有名な「太陽の塔」です。

太郎はこうした壮大なスケールの仕事を
手がける巨匠へと、成長していたのです。

岡本太郎の名言集

文筆活動にも積極的に励み、
メディアに登場することも多かった太郎は、
多くの名言でも良く知られています。

太郎が残した言葉の数々は、とにかく
人を勇気づけ、励ますパワーに溢れています。

小さなことにくよくよしてはいられない、
スケールを大きく持て、といわんばかり。

著作や名言から、太郎ワールドに入って
みるのもおすすめですよ・・・!

芸術の在り方を世に問い直し、生きるものを励ました言葉の力

太郎は若い頃からそうだったように、
終生、芸術の在り方、芸術家の役割を
世の中に問い続けていました。

文才にも長けていた太郎は、
優れた芸術論集も多数書き残しています。
難解ではない平易な言葉で綴られた名文は、
今もなお高い評価を得ています。

さらに人々の心を掴んだのは、
後に格言とされた
彼のメッセージでした。

芸術を作り出すのは人間、その人間を励まし、
鼓舞したいという意図もあったのでしょうか、

「自分の中に毒を持て」
「孤独がきみを強くする」

など、タイトル自体にメッセージが
込められたような、
力強い人生論も執筆しました。

「芸術は爆発だ!」は流行語大賞にも輝く

太郎はメディアを通した発言や
パフォーマンスでも良く知られています。

1950年代の試験放送時代から、
テレビへも多数出演し、
晩年はすっかり、お茶の間の人気者として
その存在を世に知らしめていました。

太郎の代名詞ともいえる、最も有名な言葉は
「芸術は爆発だ!」ですね。

これは1981年、磁気テープなどのメーカー・
日立マクセルのテレビCMで、
ピアノを叩きながら、太郎が叫んだ言葉です。

日本中を湧かせたこの言葉は、
流行語大賞に選ばれるほどでした。

自身をも奮い立たせるような強いメッセージ

ピカソを超えようとした太郎は、
ピカソ同様、絵画だけでなく彫刻、陶芸など
さまざまな手段で、

それまで日本にはなかった
作品世界を展開していきました。

それは容易な戦いではなかったはずです。

そして破竹の勢いで活躍する太郎は、
時に妬みや反感をかうこともありました。

それに対し太郎は
「逃げない、はればれと立ち向かう、
それがぼくのモットーだ」と、
敢然と立ち向かったのでした。

「芸術はいつでもゆきづまっている。
ゆきづまっているからこそ、ひらける」

言われてみれば、そのとおりですね。

作家ならではの強い説得力を持つ言葉は、
芸術を目指す人々を激励する思いが
込められているかのようです。

「本職は何なのですか?」との問いかけには・・・?

画家でもあり、
本も書く、彫刻も手がける・・・

そんな太郎はある時、
「本職は何なのですか?」
とインタビューで問われました。

太郎は怒ったような表情で
「本職、そんなものありませんよ。
バカバカしい。もしどうしても本職って
いうなら『人間』だ」と回答。

それほど、何かをつくることは、
太郎にとって「生」そのものだったわけです。

夢中でのぞむ芸術活動は、彼にとって
瞬間であると同時に永遠でした。

「芸術は時空を超えている。
いかに芸術というものは永遠であるか」
つまり永遠であることこそ、
「生」となりうるのでした。

「岡本太郎と遊ぶ」展 PLAY with TARO―

川崎市岡本太郎美術館

「遊ぶ」、という行為は、
小手先の仕事だったり、真剣さに欠ける
ような響きがありますが・・・

岡本太郎をもってしては、「遊び」だろうと
何だろうと、全身全霊で取り組むものでした。

そんな彼が命をぶつけて作り出した作品を
鑑賞しながら、
鑑賞する人々も「真剣に」遊べる展覧会が
川崎市岡本太郎美術館で開催されています。

会期は2017年7月15日(土)から、
10月15日(日)まで。

所在地:〒214-0032 神奈川県川崎市多摩区枡形7丁目1−5
TEL 044-900-9898
開館時間:9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日
公式ホームページ:http://www.taromuseum.jp/

ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか?

命のすべてを「遊び」にぶつけるとは?

太郎は遊びについて、
「全人間的な、つまり命のすべてをぶつけての
無償の行為だ」と、言葉を残しています。

確かに誰しも、子どもの頃遊んでいたときは、
無我夢中で、何を目的にするでもなく、
ただただ没頭していた・・・
そんな記憶があるのではないでしょうか?

太郎は「遊ぶ」ということひとつをとっても
真剣に「生」をかけてのぞみ、
その「遊び」は彼の芸術活動そのものだったと
いえるのかもしれません。

貴重な太郎作品を所蔵する川崎市岡本太郎美術館

現在、太郎の作品は、主に2箇所の施設で
みることができます。

ひとつは東京南青山の「岡本太郎記念館」、
そしてもうひとつが、川崎市岡本太郎美術館です。
ここではなんと、1,800点近い作品を
収蔵しています。

同館では貴重な資料の展示のほか、
ワークショップなどの関連イベントも、随時開催。
太郎ファンであれば、必ず訪れたいスポットです。

市場でみかけない太郎作品はなぜここに?

ちなみに太郎の作品は、市場にはほとんど
出回っていません。なぜでしょうか・・・?

それは、自分の作品を売る必要がなかったこと、

そして何より、
売ることを望まなかったためでした。

太郎にとって、
芸術は売り買いされるものではなかったのです。

そんな太郎に、
「数点でも良いので譲ってほしい」
と母・かの子の縁の地である川崎市が
願い出たところ、

「そんなに欲しいのなら全部あげよう」と
太郎は自分が所蔵するものをすべて寄贈。

かなり豪快な話ですね・・・!

そんなわけで、
この川崎市岡本太郎美術館が
開設されることになったのです。

 各地の太郎作品を巡るのも楽しい!

他にも太郎の作品は、全国各地、
「こんなところに・・!」と思うような場所で
出会うことがあります。

青山の「岡本太郎記念館」はもちろんのこと、
先述の「太陽の塔」がある大阪府吹田市など、
各地を巡ってみるのも、楽しそうですね。

そう、1969年以降、行方不明だった
大作「明日の神話」は2003年に発見され、
現在、渋谷マークシティの連絡通路に
展示されています。

一人ではもちろん、
恋人や友人とみにいって、その迫力を
分かち合ってみてはいかがでしょうか。
太郎の「生きる力」を体感すれば、
きっと誰もが励まされることでしょう・・・!

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【ピカソにも兆戦した、鬼才・岡本太郎】芸術は爆発だ! 命がけで遊び、生き、芸術を創造する ~「岡本太郎と遊ぶ」展~

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makiko

makiko

芸術系大学出身。アート・恋に夢中だった学生時代、ヒールの高い靴を愛した独身時代を経て、現在はライター、イラストレーターとして活動するアラフォーママ。