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超俗の画家・熊谷守一/東京国立近代美術館にて開催の回顧展【没後40年 熊谷守一 生きるよろこび】

超俗の画家・熊谷守一/東京国立近代美術館にて開催の回顧展【没後40年 熊谷守一 生きるよろこび】

(アイコン画像はイメージです)

眠たそうに、気持ち良さそうに
横たわる猫。

壁に張り付いたように、
あるいは踊るように、跳ねるカエルなど、
庭にふと現れた生き物たち、

真っ暗な背景に、くっきり丸く
浮かんだ月や、淡く光る青空にそよぐ緑、
花々…身近な自然の姿を、

独自の視点で捉え、描いた画家・熊谷守一。

明治の生まれですが、
色彩感覚や構図のとり方などは、
とてもハイセンスで、
近年、再評価されている画家の一人です。

思わずほっこりさせられる画風は、
筆者を含めて、
女子の心をくすぐるものがありますね。

そして彼は、
「仙人」と呼ばれた画家でもあります。

今回は、そんな熊谷守一と、
今冬に開催される回顧展について、
ご紹介します。

仙人といわれた画家・熊谷守一とは…

熊谷守一は、
1880年(明治13年)生まれの画家です。

1977年(昭和52年)に97歳で
この世を去るまで、生涯現役で
絵描き続けました。

心和ませるようなその画風は
多くのファンを魅了しましたが、

一度見たら忘れられないような
その風貌に惹きつけられた人も、
多かったようです。

服装は専ら着物姿。
白く長いヒゲを生やし、
伸びきった眉の下に覗く、優しい瞳。

晩年は自宅と庭から一歩も出ず、
スケッチや自然観察をして過ごした
その暮らしぶりから、
「画壇の仙人」とも呼ばれました。

本人は、「仙人」といわれることを
嫌っていたようですが…

そんな熊谷守一とは、
どんな画家だったのでしょうか?

まずは彼の生い立ちから
ご紹介しましょう。

地主の家系、実業家の父のもとで育った守一

守一の出身地は、御岳山南側のふもと、
谷合いの村である岐阜県恵那郡付知。
現在の中津川市付知町にあたります。

村の大地主の家系に生まれ、
200年以上もその地に建つ家屋で
育ちました。

父・孫六郎は、若いころから
村の顔役然となり、
紺屋(染物屋)を開いたり、
牛を飼って乳業を興すなどした後、

守一が生まれた時には
製糸工場を大掛かりに経営していました。

さらに、守一が9歳の頃には、
県会議員も務め、

当時、岐阜にしかれたばかりの
市制施行にも関係した孫六郎は、
初代の岐阜市長にも着任しました。

父親はいわゆる地元の名士で、
守一は、かなりのお坊ちゃまだった、
といえます。

しかし、
地主でありながら、じっと手をこまねいて
はいられず、あれこれ奔走する父の姿を

守一少年は、
ユーモラスかつシニカルな
独自の視点で、捉えていたようです。

この父親に対して守一は、
「何もしないでじっとしていることが
いちばんだと考えている私とは、
大違いの性分だった」と語っています。

自室が90畳?! 特殊な環境で過ごした少年時代

守一は、七人兄弟の末っ子でした。
そして、4歳になると、
「岐阜の家」と呼ばれた別宅へ
移されてしまいます。

この家は、製糸工場のそばにあり、
父親の妾二人、そしてその子どもたち、

つまり守一の異母兄弟たちが住む家
だったのです。

さらに妾の姉妹なども住み込み、
守一にも、その他の異母兄弟たちにも
一人ずつ乳母と家庭教師が付き、その家は
大勢でごったがえしていました。

そして妾の片方がえばったり、
極端に可愛がられる子、嫌われる子が
いたり…
ごちゃごちゃした人間関係と家に、
守一は辟易していました。

そんな中、守一には
二階の90畳敷きの部屋が与えられて
いたそうです。

「岐阜の家」は、元々は旅館だった建物を
買い取ったもので、こんなだだっ広い部屋が
あったのでした。

食事をするときも、この部屋で
一人ぼっちだった守一は、
どんな思いだったのでしょう。
とても寂しかったのではないでしょうか…。

かなり特殊な環境で育った守一は、
しだいに自分の殻に閉じこもるように
なっていきます。

「大人はウソのかたまりだ…!」

家の中では、相変わらず
デタラメな序列で誰かが幅をきかせ、

大勢の人間が、ひしめき合い、
複雑なしがらみが展開されていました。

こんな状況を引き起こしたのは、
他でもない、世間では名士として
通っている自分の父です。

さらに、製糸工場には
若い使用人が多かったため、
色恋沙汰、ケンカなどが日常茶飯事。

心中事件が起きた時には、
その経緯を大人たちが面白半分に
詳しく語る様子を目の当たりにし、
守一は、心底嫌な気持ちになりました。

そんなわけで、守一は
「大人のすることは一切信用できない」
と子ども心に決めてしまったのです。

熊谷守一、画家としての道

子ども時代から、
心を閉ざしてしまったかのような
守一でしたが、

絵を描くことは、ごく小さいころから
好きで、小学校高学年になる頃には、
水彩で絵を描きはじめました。

守一はどのようにして、
画家人生を歩み始めたのでしょうか…?

授業中は窓の外の景色に夢中…!

守一少年は、
学校の先生に対しても
不信感を抱いている子どもでした。

事あるごとに「偉くなれ」と言う
先生の話には、うんざりしていました。

守一は、人を押しのけて前に出よう、
ということが大嫌いだったのです。

「そんなにみんなに偉くなれと言って、
みんなが偉くなったらどうするんだ?」
と疑問に思い、

他の生徒のように、
先生の言うことなどまともには
聞く気になれませんでした。

一生懸命喋っている先生をよそに、
窓の外ばかり眺めていた守一は、

雲が流れて微妙に変化する様子や、
ヒラヒラ落ちる木の葉の様子などを
見ていることが好きでした。

どれだけ見ていてもまったく飽きることがない、
実に面白い、とつくづく感じていたのです。

そんなわけで、守一は学校でよく叱られ、
訳もわからずに立たされたりする、
いわゆる「問題児」でした。

窮屈なものから逃げ出したくてたまらない、
そんな守一の性分は、
絵に向かう姿勢にも表れていました。

成長するにつれ、ますます
絵を描くことが好きになっていましたが、
「一所懸命やる」ということはしません。

怠けるわけでもないのですが、
絵を一心不乱に描こうという気には
ならないのです。

「好きは好きだが、だからどうだ、
というわけでもなく、その先はない」

なんとも無欲で…!
ある意味、優雅なスタンスですよね!

父の反対を押し切り、東京美術学校へ

中学を卒業した守一は、上京させられ、
芝正則中学(現・正則高校)に通いました。

勉強に興味が持てなかった守一は、
この頃「絵描きになろう」と決心します。

しかし父孫六郎は、
「芸者と坊主と医者と絵描き、
そんなものはみんな乞食だ」と
決めつけ、大反対でした。

偏った意見の父に反対されればなおのこと、
守一は、絵描きになる心を固めてゆき…

そしてついに
「慶応に一学期だけ通えば、
あとは好きにして良い」と許しを得ます。

守一は、平日は
日本画家・望月金鳳が校長を務める
画塾に通い、

土日は、石膏像が豊富にあった
帝大(現・東京大学)の工科の教室で、
デッサンに明け暮れる日々を過ごしました。

そして1900年の春、念願叶って
東京美術学校(現・東京芸術大学)の
洋画家に入学。

近代洋画の父として知られる黒田清輝、
同じく日本の洋画壇における重鎮・
藤島武二らに師事し、

同期には、
ロマン主義的傾向絵画の天才・青木繁のほか、

後に二科会結成のメンバーとなる山下新太郎、
絵画だけでなく、映画の衣装デザインも手がけ、
アカデミー賞・衣裳デザイン賞を受賞した
和田三造などがいました。

絵のうまさで、入学当初から
一目置かれていた青木繁は、
講師たちを見くびるほどの高慢さで
周囲から孤立していましたが、

なぜか守一とだけは、
仲が良かったそうです。

何事にも我勝ちに向かわない守一には、
どこか人をほっとさせるような
朴訥とした雰囲気があったのかも
しれませんね…!

異色の経歴?! 樺太調査団の絵描き時代~山中生活

守一は、美術学校在学中に
お坊ちゃまから一転します。

父・孫六郎は事業の借金を残して他界。
破産してしまったため、
卒業後は なるべく早く
自活しなければならない状況でした。

今も昔も同じかもしれませんが、
美術学校を出たからといって、
絵だけではなかなか食べてはいけません。

そんな矢先、守一は
農商務省が樺太調査団を作り、
その団員に絵描きを1名募集していることを
知ります。

守一は、さっそくこの調査団に
参加しました。

この調査団は、まだ日露戦争下にあった
樺太の、主に漁場に焦点をあてて
調べるというもので、

守一は、樺太の各地を船で巡り、
歩き廻りながら、漁港風景や海産物を
スケッチし、記録を残しました。

ある時守一は、
年老いたアイヌの男性が二人で
小船を漕いでいるところへ出くわし、

「ああ、いい風景だな」と
つくづく感心してみとれたといいます。

「世の中に神様というものがいるとすれば、
きっとあんな姿をしているのだな…」

守一はそんなふうに、思いました。
いかにも、彼らしいエピソードですね。

筆者の想像の中では、熊谷守一のいでたちこそ、
そのアイヌの姿と重なるのですが…!

樺太調査団の仕事に就いていた約2年間、
守一はほとんど月給を使わず、
その後東京に戻って貯金を切り崩して
暮らしながら、

文展(文部省美術展覧会)へ出展する絵を制作。
1909(明治42)年には、「蝋燭(ローソク)」で
褒状を授与されます。

この絵は、後年よく知られるところとなった
子どもの絵のようなタッチと異なり、
伝統的な油絵の手法で描かれた
写実的なものです。

文展で脚光を浴びた守一でしたが、
この翌年、母の訃報を受けて岐阜に帰郷、
東京から突如、姿を消してしまいます。

そして1915(大正4)年に再上京するまで、
冬の間は山中で「ヒヨウ」をしたり、
鍛冶の仕事を覚えるなどして過ごしました。

「ヒヨウ」とは、伐採した材木を川に入れ、
イカダを組める場所まで運ぶ仕事なのですが、

この話に尾ひれ羽ひれがついて、
「誰とも会わずに仙人のような暮らしを
していた」などという噂が流れたようです。

確かに、これより以前から、
羽織の上にカンガルーの毛皮でできた
ちゃんちゃんこを纏い、高い朴歯の下駄を履いた
「守一スタイル」が確立していたようで、

そんな噂が流れても、疑う人は
少なかったのかもしれませんね。

 超俗の生活にも注目された熊谷守一

守一はお酒も飲まず、
金銭を浪費することには無縁でした。
お金があったとしても、使い道がわからず、

困窮しても、稼ぐためにガツガツと描く、
ということはしませんでした。

金銭に対しても、何か常人離れした感覚を
備えていた守一は、どんな生活を
していたのでしょうか?

二科会の講師に着任するも、無指導に徹する?!

足かけ6年に及んだ付知での生活を
「なんとなくやめようと思った」守一は
1915年に再び上京しました。

当時は、ちょうど日本の洋画壇が
大きく揺れ動いていた頃でした。

先述の山下新太郎や藤島武二のほか、
フランス帰りで新しい画風を吸収してきた
画家たちが、二科会を結成。

そこへ再上京した守一も、
仲間に勧められ、所属することとなります。

二科会の中心的メンバーには、
生活費に困っていた守一を心配し、
上京後、数年間にわたり金銭的支援をした
斉藤豊作もいました。

そして守一は、
1928年(昭和3年)頃から、
二科会研究部の講師に着任。

以後、10年間ほど講師を務めましたが…

「先生に教わるようなことで、
ロクな絵描きが出たためしがあるか」と、
指導らしいことはいっさいせず…!

何をしていたかというと、
生徒たちと一緒に写生などをして
過ごしていたといいます。

これもやはり、守一らしいですね。

熊谷守一流・絵の指導とは…?

ある時、生徒に
「どうしたら良い絵が描けるか」と
問われると、守一は、
「自分を生かす自然な絵を描けばいい」と
答えました。

下品な人は下品な絵を描けばいい、
ばかな人はばかな絵を描けばいい、
下手な人は下手な絵を描けばいい…

守一に言わせれば、
自分を出して、自分を生かす、
それが「絵」だということなのです。

何気ない答えですが、筆者には
「どう描いたら良いか」と画家自身が悩み
辿り着いた境地のように感じられるのです。

40歳を過ぎてから結婚、極貧の暮らし

少し時は遡り、
上京して7年後の1922年(大正11年)、
42歳の守一は、18歳年下の大江秀子と結婚。

結婚についての経緯は不明ですが、
「年の差婚」=大恋愛の末の結婚、と
想像してしまいますね。

秀子は生涯の伴侶であり、
二人はたまに喧嘩しながらも、
仲睦まじい夫婦として過ごしたようです。

さて、
かつて生活費を工面してくれた齋藤豊作は、
パリへと旅立ち、
それまでの困窮状態に輪をかけて、
結婚後はさらに、貧しさがつのりました。

教員初任給が約45円だった当時、
二科会研究所から、車代の名目で
月30円という金額が支給されていましたが、
家賃が同額の30円だったというのです。

差引ゼロ、ってことですよね?!

生活費のために「絵を描いてください」と
頼むのは、秀子だけではなく、
この様子を見かねた周囲の人々も同じでしたが、

守一は、「とても売る絵は描けない」と
筆をとらずにいるのでした。

結婚の翌年には長男、
その翌々年に次男、さらにその翌年に長女、
と次々子どもが生まれましたが、

皆身体が弱く、しょっちゅう熱を出します。
しかし病院に行けないほど、
お金に困っていたようです。

そして熊谷家に、
悲しい出来事が訪れるのでした。

守一と子どもたち・度重なる死を乗り越えて

一家の経済状況は、
次男・陽の誕生から、亡くなるまでの
4年間が、最も貧しかったようです。

陽を亡くした守一は、悲しみのあまり
亡くなった陽を枕元で絵描きました。

この時、粗いタッチの油絵「陽の死んだ日」を
完成させましたが、
日常的には描けない日々が続きます。

そして1931年(昭和6年)に生まれた三女も、
生後1年半で亡くなり、

「熊谷さんはあんなに子どもを
可愛がっているのに、なぜ子どものために
絵を描いて稼ごう、という気にならないのか」

こんなふうに周囲から責め立てられても、
守一はいっこうに絵を描けないのでした。

晩年もなお、子どもたちの死を思い出すと、
「胸が締めつけられるようだ」と語っていた
守一の心中には、
凄まじいジレンマがあったことでしょう。

守一と秀子の間には5人の子どもが
生まれましたが、この後、長女・萬も
21歳の時に、肺を病んで亡くなり、

計3人もの子どもたちを亡くす、という
悲劇を乗り越えなければなりませんでした。

写真家・土門拳もモデルを願った、熊谷守一の生活とは…?

自身は「仙人」といわれることを
嫌っていた守一の生活、風貌は、
一体どのようなものだったのでしょうか?

池袋に近い千早町にあった守一の自宅には、
さまざまな雑誌のカメラマンらが、
その姿をとらえようと、取材に訪れました。

しかし守一は、
写真を撮られることがあまり好きではなく、
絵を描いているところは誰にも
撮らせませんでした。

昭和を代表する偉大な写真家・土門拳も、
1948年(昭和23年)に守一をモデルに
撮影していますが、

やはり創作のシーンではなく、
庭に仰向けに寝転んだ姿でした。

土門拳の弟子、藤森武も、
風貌そのものが芸術品のような守一に、
魅了された一人。

全身からにじみ出る人間味を、
なんとかして写真に捉えたい、と切望し、
その熱意に押された守一は、
とうとうアトリエでの撮影を許可します。

そうしてできた藤森武の写真集
「独楽 熊谷守一の世界」には、
最晩年の守一の普段着姿から、
創作の様子など、貴重な写真が収められています。

余談ですが、
白髪と髭から覗く、かなりイケメンの
優しいお顔立ちを拝むこともできます♡

守一に興味を持った方には、
ぜひおすすめの写真集です…!

家と庭だけで過ごす、孤高の画家のルーティーン

1956年(昭和31年)、
軽い脳卒中で倒れた守一は、
以後、遠出の写生などはしなくなり、
家と庭だけで過ごすようになります。

朝起きると、妻・秀子と碁を打ち、
その後は昼寝や、庭での自然観察と散策。

都心の住宅地の中で、50坪あまりの庭は
そこだけが山中のように草木が茂り、
鬱蒼としていました。

守一は、庭に十数個作られた腰掛けで休み休み、
スケッチブックやパイプを携えて庭を巡り、
鳥や虫たちと戯れ、日中を過ごすのでした。

アトリエでの創作は夜が更けてから。
晩年の守一の日課は、
このような感じだったようです。

1964年(昭和39年)には、パリである画商が、
守一の個展を開きましたが、
足腰の弱っていた守一は、出かけることはせず、

自身の絵が出展される国内での展覧会にも、
足を運びませんでした。

猫や虫、草木…自然を捉える科学者にも似た観察眼

美術学校時代の同期生・山下新太郎によると、
守一は、

色々な角度から見た物の形を
一つの画面に収める表現、
つまりキュビズムの手法がまだ画壇に
登場する以前に、

それとほぼ同意義かと思われる手法で
制作に励み、苦心していたといいます。

もちろん、キュビズムの出発点といわれる
ピカソの「アビニヨンの娘たち」が描かれる
前のことです。

当時の日本でも、その概念すら
認識されてはいません。

そんな晩年の守一が描いたモチーフは、
主に、庭で出会ったカエルや虫、花や木、
飼っている猫や鳥など、身近な自然でした。

一見、子どもが描いた絵のように、
何の苦もなく描かれたかのような絵画。

子どもが遊びに夢中になるように、
ひたすら無心であればこそ描ける絵だと
筆者は感じます。

ただ、無心に描いていながら、
緻密な観察や高度な工夫なくして、
こうした作品は生まれなかったことでしょう。

子ども時代、
見せかけや嘘が満ちた大人に
不信感を抱いた守一は、

自ずと、虚飾のない絵を描くかのように、
あるいは「上手く描こう」という画家の邪念を
消し去るように、

モチーフを単純化し、
ベタ塗りのように、色の濃淡を
とりはらう表現に徹しました。

その線や色は、
花や生き物がいきいきと見えるよう、
熟考の末に選ばれたものだということが
伝わってきます。

また、暗闇の中や、逆光下など、
さまざまな条件における見え方を探り、

スケッチをもとに、
同様の図柄を複数の作品に用いる方法を
編み出すなど、探究も重ねていたようです。

穏やかな雰囲気を醸しだす作品の背景には、
さまざまな研究の積み重ねがあったのです。

晩年は二科を脱退、文化勲章も辞退し、「仙人」と呼ばれる

二科会の研究所「二科技塾」で
約10年間、講師を務めていた守一は、
その後もしばらく二科との関わりを
持ちましたが、
戦後になって、二科の所属をやめました。

二科会から派生した二紀会の創立にも
関係者の勧めで加わりましたが、
数年後に自然消滅するかたちで脱退。

70歳を過ぎた守一は、
どこの会にも属さない無所属の画家
となりました。

1967年(昭和42年)、87歳の時、
守一は文化勲章の内示を受けます。

しかし、常人には大変な名誉だと
思えることでも、守一にとっては違いました。

「お国のために何もしたことは無いから」と
文化勲章を辞退。
その後も勲三等叙勲を辞退します。
守一は、もともと勲章というものが
嫌いだったのです。

人々がますます「仙人」といいたくなったのも、
わかる気がしますね…!

国立近代美術館にて開催!「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」


ご紹介した熊谷守一の大規模な回顧展が、
この冬、国立近代美術館にて開催されます。

会期は2017年12月1日(金)から、
2018年3月21日(水・祝)まで。

会場:東京国立近代美術館
(東京都千代田区北の丸公園3-1)
開館時間:
10:00−17:00
(金、土曜日は20:00まで、
入館は閉館30分前まで)

休館日:月曜
(ただし 1月8日、2月12日は開館)、
年末年始(12月28日~2018年1月1日)、
1月9日(火)、2月13日(火)

ぜひ足を運んでみましょう…!

 97年の生涯、描き続けた熊谷守一の軌跡を辿る回顧展

本展覧会は、
生涯現役で描き続けた
熊谷守一の大回顧展です。

自宅の庭で雨粒が落ちる瞬間を描いた
「雨滴」(1961年制作、愛知県美術館
木村定三コレクション)、

のんびりとくつろぐ姿がなんとも可愛い
守一の代名詞的な作品、

「猫」(1965年制作、同上)など、

200点余りの作品が一堂に会します。

97年間の長い人生において、
特殊な環境で育ち、
家族の死、自身の病など、

幾多の困難を乗り越えた守一。

その人生の中で、画風を変化させ、
ひたすらモチーフを見つめ、
描き続けた絵は、
生きているものへの賛辞だったのかも
しれません。

その画業の軌跡を、この展覧会でぜひ
辿ってみましょう…!

ユーモラスでほっこり♡ 独自の作品世界!

穏やかで明快な線と、あたたかな色づかい。
熊谷守一の世界には、
心和ませる力を感じますね。

守一が繰り返し描いたものの一つに、
猫があげられますが、
いずれもマッタリと横たわる、脱力系の
可愛さがたまりません。

蟻や蜂の姿も、
たどたどしくもあり、それでいて
いそいそと動き回る様が、実によく
伝わってきます。

絵を見つめていると、
生き物と日常的に会話する
ユーモラスな画家の姿が浮かび上がって
くるようです。

そして独特の明るい色彩感覚には、
筆者も特に心惹かれます。

静かであたたかな光に誘うような
作品たちを、ぜひ直に鑑賞してみませんか?

豊島区・熊谷守一美術館でも、守一作品に出会える!

豊島区千早の
熊谷守一の住居兼アトリエ跡地は現在、
豊島区立熊谷守一美術館となっています。

同館では、寄託作品を含めた30点ほどの
油絵を鑑賞することができます。

ほとんどが4号(333mmx242mm程度)サイズ
の小品であり、

そのコンパクトなキャンバス上を
線と面で区切り、平塗りしていく技法で、
守一は独自の小宇宙を展開しました。

油絵だけでなく、
墨絵や書の名手ともいわれたその作品も
常時展示されています。
こちらも興味深いですね…!

彼ゆかりの地を来訪し、
かつての暮らしに思いを馳せながら、
守一ワールドに浸ってみましょう。

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makiko

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芸術系大学出身。アート・恋に夢中だった学生時代、ヒールの高い靴を愛した独身時代を経て、現在はライター、イラストレーターとして活動するアラフォーママ。